- 原始時代
- 多米では、神石の巨岩の下に穴居跡らしいものがあったというが遺物は見つかっておらず、弥生土器が出土した坪尻遺跡が最古とされてきたが、平成13年、稲荷山古墳の発掘調査で縄文土器が出土して、多米の歴史はもっと昔へとさかのぼることになった。
- 多米古墳群 朝倉川上流の山麓には多数の古墳が点在しており、これらを総称して多米古墳群と呼んでいる。豊橋市教育委員会調査報告書によると古墳の総数は88基に及ぶ。
キジ山古墳群 35 | 野中古墳群 7 |
坪尻古墳群 20 | 赤岩山古墳群 5 |
寺門古墳群 5 | 稲荷山古墳群 5 |
白山古墳群 3 | 埋塚古墳群 3 |
八幡山古墳群 2 | 南山古墳群 3 |
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この他に、滝ノ谷古墳、日吉神社古墳、米山古墳がある。これらの古墳群はすべて円墳であり、最大のキジ山2号墳は径17.7m、高3mである。構築時期は古墳時代後期(6世紀末)と言われ、多くはこの地を支配した多米の族長級の人々の墳墓であったと考えられる。
- 多米連(むらじ) 多米という地名は、この地を支配した族長の名前と関連があるのかもしれない。
9世紀初めの「新撰姓氏録」に、成務天皇の代に、小長内命という者が大炊(おおい)寮に仕えて多米連の姓(かばね)を賜った、とある。大炊というのは食糧管理が仕事なので、多米となったのかもしれない。これは350年頃と推定される。
『日本書紀』『続日本紀』にも田目皇子・田目皇女や田目宿祢(すくね)、多米王・多米連福雄の記述があり、東三河が穂の国といわれた頃、この地は多米部と呼ばれる部族の支配を受けていたものと思われる。
- 徳合長者 もう一つ多米の地名については徳合長者の伝説も切り離すことはできない。
崇峻天皇(587~592)の頃、滝ノ蔵人正時清という者が多米村の東に住んで、滝山長者と名乗っていた。時清は、河内国で聖徳太子の説法を聞き、太子から「徳合長者」という名を賜り、大日如来像をもらい受けて帰ってきた。
2代目の長者兼成は、行基の作った千手観音などを滝山に祀った。その後、この土地がますます開けてコメが多くとれたので、村の名前を「多米」と変えたという。
滝ノ谷には徳合長者の屋敷跡があり、埋塚(うめづか)古墳は徳合長者の墳墓とも伝えられている。
- 古代から中世へ
- 多米郷 大化改新のあと大宝令(701)が制定され、全国を国・郡・里(後に郷)に組織して中央集権国家の基礎が整えられた。
穂の国と呼ばれていた東三河は、三河国に統合されて、宝飫(後に宝飯)・八名・渥美の3郡に分けられた。郡の境界は豊川をもとにして、右岸を宝飫郡、左岸の朝倉川以北を八名郡、その南部を渥美郡とした。
里は50戸で1里とした。平城宮跡から出土した和銅6年(713)の木簡に「八名郡多米里多米部磨庸米五斗」というものがあり、八名郡に多米という里があったことがわかる。
また承平年間(931~938)に編纂された『和妙抄』には、八名郡に7郷があり、その一つに多米郷があがっている。一方、岩崎は渥美郡になるが、渥美郡6郷の中に岩崎という郷はなく高藘郷(たかしごう)に含まれていたと思われる。
- 境川 多米と岩崎の地境は境川であった。『上岩崎村差出帳』(寛延3年)に「渥美郡・八名郡境ニ細川御座候、古来ヨリ多米村・岩崎村此水ニテ田方相続仕来申候」とあり、『多米村誌』に「境川ハ村の南方ニアリ常水5寸、幅最モ狭キ処3尺」と記述されているように境川とは名ばかりの小さな川であった。
多米と岩崎が隣接地でありながら、長期にわたって一度も同一行政区にならなかったのは、この郡の違いと境川のためであった。
- 岩崎御園 平安時代になって班田制が崩れ墾田私財法ができると、有力な貴族、寺社は競って私有地(荘田)を増やしていった。
東三河では伊勢神宮の領地が多く、延文5年(1360)の『神鳳抄』には、鎌倉時代に神宮領となった岩崎御園が載っている。御園は野菜を栽培する土地を指していたが、のちには耕作する農民や居宅も含むようになった。
また、手洗・上岩崎・下岩崎の3村を出崎荘と呼んで、地名として用いたこともあった。
- 鎌倉街道 建久元年(1190)、全国を平定した源頼朝は上洛の途についた。『吾妻鏡』によれば10月3日鎌倉を出発し、18日には遠江国橋本(新居)に着き、当地方を通過した。
そのルートは鎌倉街道と呼ばれ、浜名湖西の白須賀から中原に出て雲谷の普門寺へ、船形山を越えて岩崎から多米へ、さらに乗小路峠を越え忠興・和田を通り、当古あたりで豊川を渡り古宿(豊川)に至った。
当時、普門寺住僧の化積上人は頼朝の叔父であり頼朝は普門寺に2、3日滞在した。
頼朝は、多年にわたって平家追討の祈祷をしてくれた功績に報いるために、普門寺領として雲谷、岩崎両村を寄進し、さらに三河国地頭安達九郎盛長に命じて、普門寺・赤岩寺などに三河七御堂を建てさせた。
その後も岩崎では支配者が何度も代わり、例をあげると、建武3年(1336)結城宗広が駿河の領地を渥美郡内の9郷と交換した時に岩崎が入っており、弘治3年(1557)今川義元は岩崎を日蔵院に、翌年に下岩崎を全久院に寄進した。桶狭間の戦いで今川が敗れると今度は松平元康が戸田主殿助に岩崎の支配をまかせている。
- 赤岩城 戦国時代になると、各地に武士化した土豪が出て城を築いた。赤岩城は赤岩山の尾根上にある。南麓の赤岩寺に残る永禄11年(1568)の棟札に「願主戸田左門介」とあり、戸田一族の城といわれている。
遺構は薬師堂上方の尾根に主要な郭が3段階に削平されており、全長60m、幅20m。
尾根を断つ堀切は幅10m、長さ30m、深さ8mで、ここを攻め込むのは困難である。
城跡は現在、豊橋市の公園として整備されていて、訪れる人も多い。すぐ下には吉田藩主の信仰が厚かった愛宕神社もある。
- 船形山合戦 岩崎の南、弓張山系にそびえるNHKテレビ中継所を尾根伝いに北東に進むと船形山城跡に出る。標高276mである。
この地は三河と遠江の境にあるため戦略上の重要な拠点となり、駿河の今川氏はここに山城を築いて西進の足掛かりとした。築城の時期は明応年間(1492~1501)とされる。
山城は南東の尾根筋に築かれ長さ240m、本丸にあたる平坦地を中心に北東隅に大きな空堀があり、西崖下に腰曲輪があった。
今川氏の内紛を好機ととらえて二連木城を築いた戸田宗光は、明応8年(1499)、今川側の多米又三郎が守る船形山上を攻め落としたが、すぐに今川氏の反撃を受けて宗光は討死にし、合戦に敗れた戸田氏は田原に退いた。
その後も永禄7年(1564)、今川氏が吉田を攻めた時に小笠原安元が船形山城を守ったこと、同11年、徳川方についた小笠原広重・信元親子が武田氏の勢力拡張を防ぐために船形山城を守ったことが記録に残っている。
- 多米城(元益城) 多米城は稲荷山南東の平地に多米元益が築いた城といわれる。
今は畑や宅地となり遺跡は何も残っていないが、明治の頃には城屋敷とよばれ約50m四方の畑の周りを山が取りまいていた。
多米氏は吉良町鷲尾氏の子孫がために移住して多米氏を名乗ったと伝えられている。
元益は、若い頃に武者修行中、北条早雲と出会い、その片腕として活躍したといわれる。
その子の元興も、後に青木城主(横浜市)となり、北条氏進化として名をあげた。
永正12年(1515)、多米周防守元興は父元益の出生地である多米村に祖先追福のために本顕寺を建てたが、後に三沢に隠棲して、天文6年(1537)、この地に寺を移して豊顕寺(ぶげんじ)と改めた。豊顕寺には多米一族の墓がある。
元興の子、長定も上野西牧城主として務めていたが、秀吉の小田原攻めが始まると伊豆山中で豊臣勢と闘い討ち死にした。
ここで多米氏の主流は絶えたが、長定の弟家元の遺児の時安がのちに徳川家康に仕え、家康の第5子松平信吉付となった。
本顕寺の所在地はよくわからないが、多米の旧字名に寺門があるから、そこであろう。
また豊橋市史には、「横浜市三沢の豊顕寺にある甲冑と鎧は三州多米周防守の寄進したものというが、これは船形山合戦で城を守った多米又三郎のことと思われる」とあり、多米氏についてはいろいろな諸説がある。
- 江戸時代
- 利兵衛池 江戸時代になり豊橋の内陸部に多くの新田が開かれた。寛文7年(1667)篠田村の弥兵衛と吉田の利兵衛が吉田領主に願い出て田尻原の大地に平川新田を開発した。
平川の地は水が乏しく、新田開発に際して用水の確保が必要であったため、岩崎葦毛の下に溜池を設けて、開発者の名をとって利兵衛池と称した。さらに蝉川(朝倉川)に井堰を設けて不足の用水を得ることにした。
平川新田の開発により、新たに用水問題も起きた。蝉川の水は下岩崎村が用水として使っていたために冬季の通水権しか得られず、平川地内の水神池をつくり貯水した。この用水路の一部は上岩崎村に新設せざるを得ず、問題となった。
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