サイト内検索

多米の史跡と伝承

※■色部分は、市制施行100周年記念「校区のあゆみ 多米」より抜粋
■色部分は、「東陽地区コミュニティ マップ」より抜粋

目  次
  1. 史 跡  
  2. 人 物  
  3. 伝 承  
  1. 史 跡
    • 鎌倉街道 建久元年(1190)と6年(1195)に頼朝が鎌倉から京への往来に通行したという街道。諸説あって特定は難しいが、白須賀から中原、雲谷普門寺を経て船形山を越え、鞍掛神社、赤岩寺前を過ぎ、乗小路峠を越え、牛川忠興・石巻和田を通り、当古で豊川を渡ったらしい。岩崎・多米は頼朝にまつわる伝説の地といえる。
    • 手洗 頼朝が京に上る際、湧き溜まる清水で手を洗い清めたという伝説から手洗井戸と呼ばれ、地名となったという。
    • 日吉神社 神亀4年(728)船形山に寺を建立しようとした行基が山林の守護神として創建したという。天文2年(1534)船形山の戦禍で焼失後再興された。神社裏手には奥行き5m高さ1.3mの石室を持つ、火穴と呼ばれる上代古墳があり、多米古墳群でも最も整った形態を保っている。
    • 龍岩院 天文元年(1532)の創立という本尊は釈迦牟尼仏座像。薬師像は江戸時代、普門寺南薬師沢から安置したという。古くから寺子屋として明治20年頃まで教育に務め、当時の教室「寺子部屋」が今も残っている。
    • 駒止めの桜 建久年間に、源頼朝が都(京都)へ行く途中に、この地を通り、この桜に軍馬をつなぎ、当地の氏神の'鞍馬大明神'(現在の鞍掛神社)に鞍を奉納して、武運長久を祈願したと伝えられている。
       現在のサクラは往時を偲んで植えられたものである。
    • 鞍掛神社 創立年代不詳。文治4年(1188)に現在地すぐ南の米山の鞍馬大明神を遷座。建久元年(1190)頼朝が京へ上る時、鞍を奉納したことから鞍掛神社と改めたという。3月下旬の祭礼では以前は境内西の舞台で村芝居が行われていた。祭礼では今でも「牛の舌」という大判大の餅が氏子に配られる。

       

    • 戸田宣光石碑 江戸時代11代150年以上に亘り、松本城主を務めた戸田氏の祖・宣光は二連木城を居城とし、岩崎村に没したと伝えられている。
       田畑の中に篠竹と生垣に囲まれ、「丹波入道惟馨全香墳跡」の碑銘と宣光の略歴を記したこの塚は最後の松本城主・光則が嘉永2年(1849)に当地に建立した。

       

       

       

    • 葦毛 馬は毛色により白馬や「栗毛」など呼び名が異なる。頼朝の愛馬は白毛に黒・濃褐色の差し毛のある「葦毛」(あしげ)の馬だった。厳しい旅程に絶命した愛馬を頼朝が手厚く葬ったということから地名となった。
    • 葦毛湿原 湿原の成因となる湖沼・河川・平地・海岸の何れにも属さない特殊な湿原である。行幸75mにもかかわらず高山植物が自生する湿原である。山腹斜面からの湧水の浸透を妨げる岩盤上に堆積した強酸性・貧栄養の僅かな土壌が湿潤となって保たれている独特の中間湿原である。
       昭和62年豊橋市天然記念物に、平成4年には、愛知県天然記念物に指定された。
    • 多米峠 愛知・静岡両県の県境、弓張山系の標高265mの峠。古来から三河・遠江両国を結ぶ道路の峠の一つである。
    • 多米不動滝 多米峠の豊橋側から登り口最初の右カーブの手前左手にあり、落差4m程の滝である。與教大師作と伝えられる「滝不動尊」が佇む。
    • 歓喜院 多米の徳合長者の開創と伝えられ、永享11年(1439)東海義易禅師が再興した。禅師は1441年豊川稲荷で有名な妙厳寺をも開設した人物。
       境内の不動堂はもと滝ノ谷の滝付近にあったもの。瀧不動縁起を所蔵していた。300年ほど前から寺子屋を開き、明治5年(1872)まで続いた。
    • 春日神社 社伝によると崇峻天皇の時代、滝ノ谷の徳合長者の創建を起源とし、後に氏神春日明神を主神に村内7社を併せて八社大明神と呼ばれた多米町の氏神。
       境内には市の天然記念物イヌマキ3本がそびえ、いずれも樹齢3百年を超える大木。祭礼には特殊な神饌として生きたナマズと瓢箪を供えたという。
    • 多米城跡 多米村史に元益城とある戦国期・今川方、多米又三郎元益の居館。
       北に稲荷山、南に滝川(朝倉川)、それに合流する殿川が流れる宇清水、俗に城屋敷という地とされ、現在の「うどん松月庵」あたり。
    • 宝珠寺 16世紀(天正年間)、南脇の山腹にあったものを現在地に移したという。薬師堂内薬師仏台座の下には日本66ヶ国の土砂を納める。本堂で寺子屋を開き、明治7年牛川小学校の出張所となった。明治9~13年までは多米小学校だった。寺前のお堂は「子守地蔵」。
    • 蝉川七つ石 元禄期多米から吉田城へ掟米(おきてまい・年貢米)を背負って運んで納入していた。
       吉田下町士族藤井(次太夫)栄作が、途中の、休憩上にと雲谷から石を運搬して据え付けたと伝えられている。
       西町一丁目の東海算盤教室の裏手辺りの旧道にあったものを、現在は忠魂碑前の道路沿いに復元されている。
       昭和20年迄は、多米町の出征兵士の見送りの終点であり、この石の上で挨拶をした。また、戦没者の遺骨迎えの起点でもあった。
    • 豊橋市民俗資料収蔵室 多米小学校の旧校舎で、昭和19年に建築されたものである。
       豊橋市の民俗資料収蔵室として利用されている。昔の養蚕・農耕・漁業・林業などの道具や生活用品が展示されている。
       毎週土・日曜日に一般公開されている。
       なお、収蔵室として活用されている後者は豊橋市で唯一残っている木造校舎である。
       映画「早咲きの花」の撮影にも登場した。
      ※近年では『ふるため』とも呼ばれ、「遊びの学校」などのイベント会場としても活用されている。
    • 赤岩寺 元来は赤岩山法言寺といい、神亀3年(726)聖武天皇の勅願により行基が開いたという古刹。頼朝三河七御堂のひとつで鎌倉末期の作という愛染明王坐像は国の重要文化財。頭上に戴く獅子冠には104体の愛染明王像と文書が納められた類のないもので、毎年秋に公開される。鎌倉初期の作という仁王尊を納める山門は安政4年建立。三河随一の大門で知られる見事なもの。
    • 愛染明王坐像(あいぜんみょうざぞう) 昭和3年に、国の重要文化財に指定された。赤岩寺蔵。
       鎌倉末期の作と伝えられ、愛染堂の本尊として安置されている仏像。三眼六臂(ろっぴ)、頭上に獅子の冠をのせた高さ1m程の木像。
       像の体内に愛染明王の小さな木像百四体と修理に関する文書が収められている。
       何時の間にか男女の仲を取り持つ縁結びの仏として信仰されてきた。
       また、愛染が藍染につながることから染物業者の信仰も篤かった。
    • 阿弥陀三尊種子(あみださんぞんしゅし) 市指定文化財。赤岩寺蔵。
       縦120cm、横37cmの布の中央に阿弥陀・観世音・勢至といった女性の毛髪で刺繍された梵字が描かれている。
       上部に藤の花、下部に香炉と花瓶を置く机、額縁様の花飾りの刺繍など鎌倉期の優れた美術工芸品である。
    • 聖観音立像(しょうかんのんりつぞう) 市指定文化財。赤岩寺蔵。
       像の全長1m、塗料も剥がれ、金箔もわずかに残るのみであるが、温和で気品に満ちた藤原期の名作である。
  2. 人物
    • 近藤寿一郎 豊川用水東部幹線水路は岩崎調整堰から雲谷町山腹まで潜伏し、「つ」の字を描いて表浜から渥美町初立池まで約76kmを流れる用水。鳳来町の貯水池から渥美半島先端まで水路を開く途方もない構想は、大正10年(1921)県議近藤寿一郎が豊橋港開発と並んで提唱した。
       衆議院議員・豊橋市長を歴任した彼は、昭和43年の全面通水により日本有数の農産地となった渥美半島や自動車輸入日本一の豊橋港を赤岩山上から遥かに見渡している。
    • 徳合長者(とくごうちょうじゃ) 長者についての記述は、天明3年(1783)に、歓喜院五世悦法和尚が言い伝えをもとに書いた「滝不動縁起」に、載っているにすぎない。
       徳合長者は滝ノ谷に住み徳合長者と名乗っていた。崇峻天皇(第32代)の頃、河内の国で聖徳太子の説法を聞いて、「徳合長者」という名を賜った。
       その時に、聖徳太子の御作の大日如来を戴いて多米に帰ってきた。
       以来、米が多くとれ多米村となったとか、埋塚古墳は長者の宝物の埋蔵地といった伝説がある。
    • 戸田左門(とださもん) 多米の戸田左門一西は、戦国時代、三河の地で勢力を伸ばし、新興してきた田原の基礎を築いたという戸田宗光の流れをくむ者であり、大垣戸田の祖であって、天文・文禄の頃から元亀・天正のころまで吉田付近に住し、多米・赤岩・神郷・金田の地を領有していたことは、相違ないといわれている。
    • 松下忠男 大正6年豊橋市岩崎町に生まれた。昭和12年(1937)に東京鉄道局勤務をはじめ、名古屋鉄道局など勤務した。昭和40年(1965)に豊橋駅長となる。同43年(1968)日本国有鉄道(現JR)を退職した。
       昭和28年(1953)に自宅と土地を提供して精神薄弱児を収容する社会福祉法人岩崎学園を開園し、初代理事長に就任した。
       平成13年(2001)まで、児童発達救援センター「岩崎学園」、自立支援センター「岩崎通勤寮」、グループホーム「スィートビレッジ」の経営に携わった。
       平成13年12月14日没した。

  3. 伝承
    • 米山伝説 岩崎では「よねやま」、多米は「こめやま」と言っている。
       源頼朝が岩崎の砦にたてこもって戦をした時、敵に水断ちをされ困ってしまい、特号長者に無心して白米3俵程分けてもらった。
       それで朝日のさす中で馬を洗った。それを見た敵軍は苦労が水の泡と思い込み、水断ちの攻めを止めたという伝説である。

       

    • 宝珠寺の子宝地蔵 大知波の百姓が泊めてもらった地蔵堂のお地蔵様のお告げで、生まれた男の子が15歳になった時の願いで伊勢参りに団子を持たせて行かせた。
       吉田大橋で女の人と出会い一緒に伊勢参りをして、出会った所に戻って来ると、「私はこの川に住む竜。伊勢参りに行って来ることができたお礼に寿命を延ばしてあげよう。」と言って川の中に消えた。
       百姓夫婦と若者は団子を供えて毎年お参りをした。生まれる子が健康で長生きするようにながったことから「子守地蔵」と言うようになった。

― トップへ ―