多米ウォーキングマップ
豊橋自然歩道
豊橋市ホームページ(豊橋自然歩道について)
- 概要
(豊橋百科事典より抜粋)
1960年代の後半、東海自然歩道など大規模な自然歩道ブームが起きた中で、豊橋自然歩道推進協議会によって、豊橋周辺の自然歩道(豊橋自然歩道)整備が始まった(参照※1)。
弓張山系尾根部を南北に通るのが本線で、最初に整備された最も長い自然歩道である。その後、これと山麓を結ぶ道を支線として開発している。現在赤岩自然歩道・岩崎自然歩道など15支線が設置されている(参照※2)。
※1 最初に設けられたのは、石巻山自然歩道で、続いて岩崎自然歩道などと進み、本線はその後整備された。
※2 現在の支線の路線数は16。
 豊橋自然歩道本線 |  豊橋自然歩道最南端の東山山頂 |
 神石山山頂 |
- 豊橋自然歩道推進協議会
(豊橋百科事典より抜粋)
豊橋自然歩道推進協議会は、昭和44(1969)年、弓張山系の自然歩道の整備を目的に設立された。弓張山系の尾根道を本線とし、それと山麓を結ぶ道を支線(15支線)として整備し、維持している。既存の歩道に加えて、埋没した生活歩道などを再生して新しい支線を開設している。平成16(2004)年には、赤岩地域で歩道の整備を行った。整備活動としては、除草、倒木除去、道標の補修やゴミ拾いなどである(参照※3)。また、豊橋自然歩道の支線を中心としたパンフレットを発行している(参照※4)。
※3 現在は整備活動は豊橋市が行っており、豊橋自然歩道推進協議会はパトロールを行うこととなっている。豊橋自然歩道のパトロールには多米自然歩道を楽しむ会や豊橋市自然歩道パトロールなどの団体も参加しており、団体間で路線を分担している。
※4 現在、パンフレットは豊橋市が発行している。このページ上部の「豊橋市ホームページ(豊橋自然歩道について)」のリンク先で見ることができます。
- 弓張山系
(豊橋百科事典より抜粋)
弓張山系は、愛知県と静岡県の県境を北東から南西に連なる山並みで、八名弓張山地ともいい、北東部で赤石山脈(南アルプス)に連なっている。弓張山系の北部は鳶ノ巣山標高(669m)・城山(657m)・弓張山(679m)・浅間山(521m)・富幕山(563m)など、500~600mの山々が連なり、分水界となっている。この山系の名称は、南設楽郡鳳来町阿寺の集落の東1.5㎞にある弓張山に由来する。弓張山系の南部は豊橋市の東部に連なり、北から中山峠(350m)・坊ヶ峰(446m)・本坂峠(380m)・石巻山(356m)・多米峠(265m)・神石山(325m)・普門寺峠(257m)・舟形山(276m)・東山(258m)など丘陵性の山地が連なり、最南端は岩屋山(78m)である。この山地には「嵩山蛇穴」「石巻山石灰岩地植物群落」「葦毛湿原」など貴重な史跡や天然記念物があり、また、豊橋自然歩道がよく整備されているので、家族連れや中高年のハイカーでにぎわう。なお、この山並みは、静岡県側からは湖西連峰と呼ばれている。
- かつての街道
(多米郷土誌より抜粋)
多米は古くから道路が開け、三遠を結び、それが産業の上でも、生活の上でも村の開発に役立っていたと思われる。住民の道路に関する関心も深く、次々に道路の改修をして来た。その昔鎌倉街道が多米を通ったとは、人口に膾炙するところである。即ち豊川の古宿より和田の辻に出て神郷、金田を経て乗小路を超えて、坪尻に出、当町を通り岩崎、手洗を経て雲の谷の普門寺に出て東海道へ出たといわれる。<中略)
鎌倉街道以前の京街道について伝えるところによると関東より京都への往復する主要道路は鎌倉幕府の時代に出来た鎌倉街道以前は、吉田より当村の北の山裾を通り徳合荷場の附近より今の多米峠を越して、浜名郡瀬戸の渡しを越え、気賀を過ぎて天竜川を渡り関東へ通じたものである。主要道路であるので旅人の通行も多かったので人助の意味で無料に等しい心ざしで徳合長者は之等の人々を泊めたのである。之が本街道であった証拠の馬宿の跡が瀬戸の渡しの板付に残っていた。此の事を考える時徳合長者の家は都合の悪い山奥にあった訳ではない。当時此の主要道路にそい長者の一族郎党が五反田に住み其の当時使用した「金重の井戸」という深い井戸が今も尾崎勉の開墾畑に残っている。
明治九年の調査によると、豊橋往還については、「村の東方遠江国敷知郡大知波村堺より、本村滝の谷峠を越え村の中央を貫き西方渥美郡東田村の境に至る。長さ四拾六町四十間、幅弐間、並木無し、修繕費民に属す。」とあるがこれが主要道路である。
同調査の「太田道」については「村の東南方に在り、豊橋往還の支道にして、字南脇より東南に分れ、東方遠江国太田村に通ず。長さ廿八町四十間、幅九尺」とある。この道は弓張山脈の峠を越すので、現在は人の往来も少ないが、峠には往来の人が休息した石垣をめぐらした跡が残っている。
「乗小路」については「村の西方に在りて、三輪村、牛川村等へ出る便路にして、即ち豊橋往還の支道なり。字北山崎より西北に分れ、牛川村界字乗小路に至る迄、長さ弐拾八町三十六間、幅七尺」とある。今は殆ど人影もない道となった。
解説目次のページ
多米校区自治会ホームページ
※引用している文献は下記の通りです。
- 豊橋百科事典…発行:豊橋市文化市民部文化課 平成18年12月1日発行
- 校区のあゆみ「多米」…発行:豊橋市総代会 平成18年12月25日発行
- 多米郷土誌…発行:多米郷土誌編纂委員会 昭和42年11月1日発行
- わたしたちの多米…発行:豊橋市立多米小学校 昭和61年3月15日発行
- 多米徳合長者考(豊橋美術博物館研究紀要16号 東郷公司)…発行:豊橋市美術博物館 平成21年3月発行
- 岩崎ものがたり…発行:夏目修二 令和3年12月1日発行