多米ウォーキングマップ
多米の城跡

※国土地理院ウェブサイトの地図データ上に概ねの位置を表示しています。
※位置は必ずしも正確ではありません。
- 赤岩城
(校区のあゆみ「多米」より抜粋)
戦国時代になると、各地に武士化した土豪が出て城を築いた。赤岩城は赤岩山の尾根上にある。南麓の赤岩寺に残る永禄11年(1568)の棟札に「願主戸田左門介」とあり、戸田一族の城といわれている。
遺構は薬師堂上方の尾根に主要な郭が3段階に削平されており、全長60m、幅20m。
尾根を断つ堀切は幅10m、長さ30m、深さ8mで、ここを攻め込むのは困難である。
城跡は現在、豊橋市の公園として整備されていて、訪れる人も多い。すぐ下には吉田藩主の信仰が厚かった愛宕神社もある。
- 多米城(元益城)
(校区のあゆみ「多米」より抜粋)
多米城は稲荷山南東の平地に多米元益が築いた城といわれる。
今は畑や宅地となり遺跡は何も残っていないが、明治の頃には城屋敷とよばれ約50m四方の畑の周りを山が取りまいていた。
多米氏は吉良町鷲尾氏の子孫がために移住して多米氏を名乗ったと伝えられている。
元益は、若い頃に武者修行中、北条早雲と出会い、その片腕として活躍したといわれる。
その子の元興も、後に青木城主(横浜市)となり、北条氏臣下として名をあげた。
永正12年(1515)、多米周防守元興は父元益の出生地である多米村に祖先追福のために本顕寺を建てたが、後に三沢に隠棲して、天文6年(1537)、この地に寺を移して豊顕寺(ぶげんじ)と改めた。豊顕寺には多米一族の墓がある。
元興の子、長定も上野西牧城主として務めていたが、秀吉の小田原攻めが始まると伊豆山中で豊臣勢と闘い討ち死にした。
ここで多米氏の主流は絶えたが、長定の弟家元の遺児の時安がのちに徳川家康に仕え、家康の第5子松平信吉付となった。
本顕寺の所在地はよくわからないが、多米の旧字名に寺門があるから、そこであろう。
また豊橋市史には、「横浜市三沢の豊顕寺にある甲冑と鎧は三州多米周防守の寄進したものというが、これは船形山合戦で城を守った多米又三郎のことと思われる」とあり、多米氏についてはいろいろな諸説がある。
- 船形山城
(豊橋百科事典より抜粋)
船形山城は、三河と遠江の境に位置し、築城時期は明らかではないが、今川氏が三河方面への侵攻の拠点とするために築いたものとされる。城址は普門寺(豊橋市雲谷町)の裏山にあたり、現在は東海自然歩道のルートとなっている。遺構として山頂付近に曲輪、堀切、土塁を確認できる。三遠国境の重要拠点であったため、明応8(1499)年に二連木城の戸田宗光が今川方の多米又三郎を攻め落としたこと、永禄7(1564)年に今川氏の吉田(豊橋)攻めの際に、小笠原安元が守備したこと、同11(68)年に徳川方の小笠原広重、信元親子が武田の勢力拡張を防ぐために守備したことなどが記録として残る。
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多米校区自治会ホームページ
※引用している文献は下記の通りです。
- 豊橋百科事典…発行:豊橋市文化市民部文化課 平成18年12月1日発行
- 校区のあゆみ「多米」…発行:豊橋市総代会 平成18年12月25日発行
- 多米郷土誌…発行:多米郷土誌編纂委員会 昭和42年11月1日発行
- わたしたちの多米…発行:豊橋市立多米小学校 昭和61年3月15日発行
- 多米徳合長者考(豊橋美術博物館研究紀要16号 東郷公司)…発行:豊橋市美術博物館 平成21年3月発行
- 岩崎ものがたり…発行:夏目修二 令和3年12月1日発行