多米ウォーキングマップ
鞍掛神社
- 由緒
(豊橋百科事典より抜粋)
鞍掛神社は、社伝によると米山大明神または鞍馬大明神と称して米山(よねやま)に祀られていたが、文治4(1188)年現在地(豊橋市岩崎町森下)に遷座したとある。駒止めの桜とともに、源頼朝伝説がある。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、上岩崎村「鞍掛大明神、祢宜藤太夫、社附三石目、但シ松平主殿頭様御地頭之節御寄附地、水帳ニ有之、但シ古新切也」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に、「上岩崎村鞍懸大明神、除地新田三石、松平主殿頭代寄附、神主鈴木藤太夫」とあり、「上岩崎村差出帳」・「下岩崎村差出帳」(寛延3年)ともに「鞍掛大明神、両岩崎村氏神」とある。
(わたしたちの多米より抜粋)
この神社は、今から八百年ほど前、米山にあった米山大明神を、今の地に移したものです。
源頼朝が、ここにくらを奉納して、武運長久を祈ったことから鞍掛大明神と名がかわったと伝えられています。昭和のはじめごろ境内には、スギ、ヒノキ、クスノキなどの大木がたくさんあって、土用のころでさえ涼しかったということです。
建てかえられたころは、田のなかにどうどうとした神社をながめることができ、春と秋のおまつりには、村人が歌舞伎を上演し、大ぜいの人びとが集まって、とてもにぎわったそうです。今でも舞台に使った道具などが残されています。
「不思議なご神体」
明治のはじめごろ、神職が鈴木氏から多米の尾崎氏にかわりました。その尾崎氏がご神体の鞍を持ちあげようとしたが、重くてあがりませんでした。そこで鈴木氏に持ちあげてもらったところ、とてもかんたんに持ちあがりました。尾崎氏はこれをみて、神様が鈴木氏に味方したものと思い、とても感心したそうです。
「改築を決めたシイの大木」
明治のおわりごろ、神社を建てかえるかどうかを村人が話しあっていたところ、風もないのにシイの木の太い枝が、とつぜんおれたので、神様のお告げだと思い建てかえを決定したそうです。
- 鎌倉街道
(多米郷土誌より抜粋)
多米は古くから道路が開け、三遠を結び、それが産業の上でも、生活の上でも村の開発に役立っていたと思われる。住民の道路に関する関心も深く、次々に道路の改修をして来た。その昔鎌倉街道が多米を通ったとは、人口に膾炙するところである。即ち豊川の古宿より和田の辻に出て神郷、金田を経て乗小路を超えて、坪尻に出、当町を通り岩崎、手洗を経て雲の谷の普門寺に出て東海道へ出たといわれる。当町の南に米山という山がある。其の麓に源頼朝が馬をつないだ桜の木がある。駒止めの桜といって知られている。其の鞍が岩崎の神社のご神体として祀られているので、鞍掛神社というのである。又雲の谷の普門寺境内には頼朝の遺蹟がのこっている。之を考えて見ると鎌倉街道は多米を通ったことと思う。
- 米山伝説
(わたしたちの多米より抜粋)
むかしむかし、源頼朝というえらい人が、岩崎のとりでにたてこもって、戦をしたそうです。その時、とりでをぐるっと敵に囲まれてしまい、そのうえ、飲み水にするとりでのふもとの川もせき止められてしまったそうです。そのため川の水は干上がってしまいちょろちょろと山清水が出るだけです。これは家来の飲み水も馬に飲ませる水もありません。頼朝さまも家来たちも、全く困りはててしまいました。このままではとりでをあけ渡して降参するか、討って出て討ち死にするかのどちらかです。
頼朝さまは、「もはやこれまでじゃ。」と腹を決めました。しかし、「それでも、もしかしてーー。」と考え、力持ちの家来を二、三人連れて、夜中にこっそり敵に見つからないように、とりでから近い多米の徳合長者を訪ねました。
徳合長者と言えば、そのころ、まるでとのさまのようないきおいでした。その家屋敷は、多米峠のふもとに、池を見下ろすように広く大きく建っていました。
朝日さす 夕日かがやく 木の下に 黄金千駄(おうごんせんだ) 板千駄
村の人は、こっそりこんな歌を歌っていました。なにしろ大金持ちなものですから、どろぼうに金を盗まれてはならぬと、どこかに金を埋めたといううわさ。世の中にはよくの深い人がいるもので、その話を聞いてあちこち掘りまわした人もありましたが、いくら掘っても掘っても、出てきたものは石ころだけだったということです。
その徳合長者を頼朝さまは訪ねたのでした。
「夜分、何ごとでございましょうかの。」と長者が聞くと、「おりいってのお願いで参った。白米二、三俵わけていただきたいのだが。」
大きな土蔵には、米はくさるほどあったにちがいありません。けれども、いくら頼朝さまが頭を下げても長者はなぜかうんと言いません。
「ほしいのは米ではなくて、水ではないのかね。」と、長者は、にやにや笑って言いました。
(ううん、とりでの様子を知っておるな。)
すぐ下の池には、すみきった水がいっぱいたまっています。おけに一ぱいでもかついで行きたいところですが、頼朝さまはじっとがまんしていました。「長い戦で、家来たちはもおうつかれてはててしまった。死ぬ前に一度だけでもうまい米を食わしてやりたくて、それでお願いにやってきたのだ。」
長者は、頼朝さまが討ち死にの覚悟を決めたものと思いました。そのいさぎよい心がけにすっかり感心して、白米をどっさりわけてやりました。
頼朝さまは、このお米をいったいどうするつもりでしょう。やはり、家来たちが死ぬ前に食べさせてあげるのでしょうか。
頼朝さまは、お米をとりでの上まで運び上げ、俵の中の米をおけに入れました。そして、ここに馬を何頭も連れてきました。そのころちょうど夜が明けて朝日がさし始めました。頼朝さまは、その光の中で、おけの米をすくうと、さあーっ、ざあーっと、馬の背中にあびせかけました。米は馬の背中からあたり一面にとびちりました。次の馬も、また次の馬も同じようにその背中に米をかけていきました。
この様子を谷をへだてて遠くから見ていた敵は目を丸くしました。「はて、ありゃ何じゃ。」「あれ、あれ。馬を水であらっとるじゃないか。」「あのとりでには、水はないはずだが・・・・・・。」「それでも、あんなにたくさん水を使って馬をあらうようじゃあ、水断ちの攻めも、ききめがなかったようじゃ。」「とりでの中には、よっぽど水の出る井戸があるとみえる。」「なんにしても、むだ骨をおったわい。」
この知らせを聞いて、敵の大将は、水断ちの攻めをやめてしまいました。
こうして、頼朝さまとその家来たちは、頼朝さまのかしこい作戦で、あぶないところを助かったのでした。
それからというもの、頼朝さまが馬の背に米をかけたこのとりでの山を「米山(こめやま)」と呼ぶようになったそうです。
- 地名の由来「駒止」
(わたしたちの多米より抜粋)
いまから八百年ほど前、頼朝が京都へ行くときにここを通り、大きな桜の木に馬をつなぎ、この地の氏神のくら馬大明神(いまの鞍掛神社)に馬のくらを奉納して、武運長久をいのったと伝えられています。
頼朝が駒(馬)を止めたので、この桜は「頼朝公駒止の桜」とよばれています。(現在のものは、昭和五十一年三月に植えたものです。)
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多米校区自治会ホームページ
※引用している文献は下記の通りです。
- 豊橋百科事典…発行:豊橋市文化市民部文化課 平成18年12月1日発行
- 校区のあゆみ「多米」…発行:豊橋市総代会 平成18年12月25日発行
- 多米郷土誌…発行:多米郷土誌編纂委員会 昭和42年11月1日発行
- わたしたちの多米…発行:豊橋市立多米小学校 昭和61年3月15日発行
- 多米徳合長者考(豊橋美術博物館研究紀要16号 東郷公司)…発行:豊橋市美術博物館 平成21年3月発行
- 岩崎ものがたり…発行:夏目修二 令和3年12月1日発行