多米ウォーキングマップ
歓喜院
- 由緒
(豊橋百科事典より抜粋)
八幡山歓喜院(曹洞宗)は、飛鳥時代多米の徳合長者が創開した滝山の坊舎六坊中の随一で、多米村滝ノ谷(豊橋市多米町)にあった真言宗の寺と伝えられる。永享11(1439)年9月11日東海義易禅師が頽廃(たいはい)無住となっていた寺を再興し、曹洞宗に改宗した。東海義易禅師は北条氏隆の三男で、母は多米村の尾崎氏の女(むすめ)といわれ、歓喜院再興の後、嘉吉元(1441)年豊川の妙厳寺を創開し開山となった。その後、妙厳寺を弟子に譲り、歓喜院に隠栖(いんせい)し、明応6(1497)年、示寂(じじゃく)した。東海義易禅師を開闢(かいびゃく)開山とし、北条氏隆を開基としているのは、この因縁による。本尊は聖観世音菩薩で開基北条氏隆の守り本尊である。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、多米村「禅宗、八幡山歓喜院、豊川妙厳寺末寺、平僧、客殿六間・五間、不動堂二間半・二間、鎮守堂二尺五寸・二尺五寸」とある。弘化3(1846)年法地に転格し、妙厳寺第25世大淵龍道和尚を法地開山とした。境内の不動堂は滝山の本殿を移したもので、滝ノ谷の本尊と伝えられる灰不動、立不動が安置されている。現在の堂は、明治24(1891)年に再建されたものである。
(多米郷土誌より抜粋)
第二次大戦中殿鐘その他仏具、什器一切を供出し、昭和十九年から終戦までいかり部隊一個中隊が当寺に駐屯止宿し、二十年六月二十日の兵火は免れた。
- 滝山六坊
(多米郷土誌より抜粋)
八名郡誌には、
「萬像寺の趾は何処かと尋ねるに字滝の谷には山腹に寺趾という平らな所があり宝篋印塔も残っている。その品は足利期のものらしいからその頃まで萬像寺の残があったであろうか、「滝不動縁起」によれば此の不動は覚鑁上人が来錫して彫刻せられたものだと云う。其の頃には滝山六坊と云って盛大な寺であったと云い伝えておる。今の歓喜院は其の六坊中の一坊の再興改宗せられたものだという。又滝の谷の地には昔徳合長者というのがあって仏教に帰依し寺院を建てたなど里人の口碑に伝わる所である。萬像寺が多米にあったとすればここより外にそれらしいところはない」と云っているが滝の谷の中腹の寺趾の面積はせまく、字北脇の裏山の中腹にある寺趾の面積の四分の一もないので萬像寺の趾は北脇の裏山であろうと思われる。村の人は寺趾のことを「堂荷場」と呼んでいる。
(多米徳合長者考より抜粋)
4.滝山六坊の寺跡
①旧歓喜院址(多米不動滝と不動堂)
(中略)
②滝山平場一帯
(1)霊屋(たまや)の峰
多米峠から弓張山脈を縦断する尾根道を約700mほど北に進むと、湖西市大知波に接する最高峰を霊屋の峰(440m)と呼び、これは滝山六坊の神体山と考えられており、この峰の北側から西に派生する稜線からその前面谷筋一帯にも大岩・平場があり、これは霊屋の峰を神体山として結びつく一連の宗教施設と考えられている。
(2)滝山大岩
弓張山脈を縦断する尾根道から赤岩寺(西)に向って少し行くと、右手に大岩(巾8.1m奥行6.6m高さ8.1m)が存在する。これは近くの平場(仏堂跡)を中心とした寺院の榜寺岩という。
(3)滝山平場
加藤竹治氏によると、地元では「鶴の首の寺跡」と呼ぶ。滝山大岩から尾根筋の道を西に200m進み、下った所にある寺跡である。幅12m奥行12mの方形で、西側に石垣や礎石もある。その形状から1㎞程北にある大知波峠廃寺と共通する構造であることから、平安時代後期のものと推定されている。西に向けて建つ方形の建物は阿弥陀堂の可能性があるという。
(4)おおびところの大岩
滝山平場に続く西側は傾斜のゆるい鞍部となっており、建物があった可能性がある。更に西側には大岩の集中する部分があり、その前面は浸食のはげしい谷となっており、同時に水源であるという。「多米郷土誌」では「おおびところの大岩」とあり、高さ20m巾50mの巨岩で、上面は土砂にうずもれているが、寺跡の可能性がある。
岩下の2か所から霊泉が湧き出しており、これが朝倉川の源流で、湧口が薬分のためか赤く錆びている。昔は茶の湯などに用いるため汲みに来る人が多く、付近一帯にはビンなどの破片が散乱していた。
以上のことから、霊屋の峰を中心とし榜寺岩である滝山大岩や寺跡、朝倉川源流などを含む一帯には滝山六坊の中で最大の坊舎があったと推定される。
③旧宝珠寺跡(光照山宝珠寺
吉田龍拈寺末寺で、創建時代は不明であるが、寺伝によればはじめは現在地の東方約十町にある字南脇の内炮六郷と称せられる山腹にあったのを今の地に移したものという。
(中略)
宝珠寺の旧寺跡である字南脇内炮六郷と称せられる一帯は、崖崩れのため現在まで確認できていない。
(中略)
④北脇裏山の寺跡(北脇廃寺)
(1)堂荷場下の寺跡
多米町字福田(福泰園釣堀店附近)から北側の山腹を300mほど登ると、堂荷場と呼ぶ寺跡がある。ここには南北11m東西20m程の平場を中心に、付近には3.5m×5m位の平場が点在している。また30mほど登った所にも40㎡位の平場がある。
この寺跡に至る経路に沿って2か所に窯跡(福田第1・第2古窯)があり、採取遺物から11世紀代(平安朝瓷器第3形式)のものと、12世紀前半(行基焼第1形式)と12世紀後半(行基焼第2形式)のものが採取されている。
(2)堂荷場上の寺跡
加藤竹治氏は「中の尾の寺跡」と呼んでおり、下の寺跡より約100m程上の尾根に位置する。南北9m東西11mの平場があるほか、15m程上にも120㎡の平場があり、両者を結ぶ小道がある。西側にも長さ2mの石垣があった。
(3)空沢の下の寺跡
加藤竹治氏によると、下の寺跡と上の寺跡から西側にあり、東向きで長方形の平場があるという。附近から古銭をたくさん掘り出した人がいる話もあるが、この場所は確認していない。
(4)西の寺跡
上の寺跡より沢を越した尾根にあり、上の寺跡より少し高い場所にある。南北10m東西18mの平場という。
(中略)
以上滝山六坊の寺跡については多米不動滝一帯・滝山平場一帯・多米南脇の内炮六郷・北脇裏山の寺跡の四か所が推定されたが、残る2か所は現在に至るも不明である。多米滝ノ谷の地籍は弓張山脈の西側斜面一帯の広大な地域であり、多くの遺蹟が残されているのではないだろうか。
- 徳合長者
(多米郷土誌より抜粋)
古老の口碑による多米と徳合長者は切り離せないものとなっている。徳合長者の屋敷址といわれる処に、今も「徳合荷場」という地名がある。多米村地誌では「此の地は古の徳合長者の屋敷なりしが、現今草莽の地となれり。然れども其の地判然として、今に石垣の遺存するあり。其の南方に長者の墓所あり。墓石を存す。同地の西北に方って山嶺に一つの古塚あり。埋塚と称す。長者の宝物を埋蔵せし塚なりとの口碑に残れり。」とある。弓張山脈の麓に、砂防池の出来た辺であろうが、石垣など見当たらない。「ごさんまい」の地名が南東にあり、墓の石垣、五輪塔などが、昭和の初の頃まであった。それが滝山六坊の墓地と伝えている。又古老の言伝えによると「朝日さす夕日輝く榊のもと黄金千杯朱千杯」という和歌は長者の繁栄をたゝえたものだという。
天保三年卯冬歓喜院悦法和尚が口碑をもとに書いた「滝不動縁起」を引用しておく。
「人王三十三代崇峻天皇の御宇大江定則と云うものあり、其の婿滝蔵人正時清と云えり。(中略)河内の国にて聖徳太子の説法を聞き(中略)徳合長者の名をたまわる御作大日如来像を受けて帰る。
宝飯郡一宮神主草鹿戸章正其の禄一千石時清の聟なり中島村に一宇を建て(一宮徳合寺)ときどき時清を請待す。時清大日如来像を彼に与う。行基の千手観音、四天王、愛染明王を徳合長者の二代目兼成拝請して滝の谷に安置す。この時土地ますます開けて米が多くとれるからと村名を多米村と改む。これ源五郎成里入道道儀三代目の時なり、覚鑁上人来臨あって不動明王を作る。四代目権五郎源平乱の頃滅亡す。今も多米村にその流類ありとなり、現在はない。その后白井式部少弼再び長者の家を起こす其の后亡ぶ」
歓喜院はそのゆかりの寺で滝山六坊随一で時清開創の寺である。
附記
大江氏は平城天皇より出て行基は天平二十一年八十二歳で死。覚鑁は康治二年に四十九歳で死んだから年代が合いかねる。また蔵人正という名前や千石ということも時代に合わぬように思う。
- 不動滝
(豊橋百科事典より抜粋)
多米の滝は、豊橋市の東部、多米峠の麓にある高さは約6m、幅は数10㎝の滝である。その滝の上の小さな堂内に不動明王(体長約50㎝)、および周辺の岩上に数体の石仏が祀られている。そのため、多米不動滝とも呼ばれている。赤岩口から豊橋大知波線(愛知・静岡県道4号)を東に進み、多米峠有料道路料金所跡から200mほど進むと、道路は右に大きくカーブする。その左手のガードレール沿いに、高さ2mほどの「滝不動明王参道」の石柱が立っている。そこから約100m奥に滝がある。また、多米には徳合長者(滝山長者)の伝説があり、滝は地域信仰の対象になっている。
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多米校区自治会ホームページ
※引用している文献は下記の通りです。
- 豊橋百科事典…発行:豊橋市文化市民部文化課 平成18年12月1日発行
- 校区のあゆみ「多米」…発行:豊橋市総代会 平成18年12月25日発行
- 多米郷土誌…発行:多米郷土誌編纂委員会 昭和42年11月1日発行
- わたしたちの多米…発行:豊橋市立多米小学校 昭和61年3月15日発行
- 多米徳合長者考(豊橋美術博物館研究紀要16号 東郷公司)…発行:豊橋市美術博物館 平成21年3月発行
- 岩崎ものがたり…発行:夏目修二 令和3年12月1日発行