多米ウォーキングマップ
宝珠寺(ほうしゅうじ)
- 由緒
(豊橋百科事典より抜粋)
光照山宝珠寺(曹洞宗)の創立は、天正年間(1573 ∼1592)で、開山は、竜拈寺第10世安国厳盛和尚とされる。寺伝によれば、はじめは東方の南脇の内炮六郷と称する山腹にあったのを、後世豊橋市多米東町の現在地に移転したと伝えられている。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、多米村「光照山宝珠寺、吉田竜拈寺末寺、平僧、客殿五間・三間半」とある。本尊は釈迦牟尼仏坐像で、境内の薬師堂は文化年間(1804∼18)に建てられたもので、堂内安置の薬師仏台座下には、日本60余州の土砂を集めて埋めてある。明治15(1882)年法地に転格し、開山は仏心道海和尚である。
安政2(1855)年に寺子屋を開いたが、明治6(1873)年学制発布のため廃止した。明治7(1874)年牛川小学校の出張所が設けられ、同9(76)年独立して多米学校となり、同13(80)年新校舎が建つまで継続した。現在の本堂は平成10(1998)年に新築された。
(多米郷土誌より抜粋)
戦時中豊橋地方が戦災をうけた時幸に兵火は免れたが、仏具、什器の金物一切を供出したばかりか、昭和19年から終戦の日まで軍隊の一部が本堂及び庫裡に駐屯していた。
当寺の東に地を接してある春日神社とは明治維新の際神仏分離のため双方の境内地を引き離した跡が見られたので、或は往昔は当寺は春日神社の社寺で真言宗であったものが、中世廃頽し、それを天正年間に再興して禅宗となったかとも思われるが、文献等の証左は何も残っていない。
- 伝承
「宝珠寺の子守地蔵」(わたしたちの多米より抜粋)
多米の東のはずれに宝珠寺というお寺があります。そのお寺の前に小さなお堂があり、その中に多米東町の人々に「子守地蔵」といわれているお地蔵さまがおまつりしてあります。これはその子守地蔵にまつわるお話です。
今から百年ほど前、江戸時代のおわりごろのことです。大知波のお百姓さんが、多米峠をこえて吉田(豊橋)までやってきました。そのお百姓さんにはもうすぐ赤ちゃんが生まれるので、その買いものにきたのです。
「はじめての赤ん坊じゃ。さて、男の子かな。女の子かな。どんな着物がにあうかな。」
といってあれこれ選んでいたら、おそくなってしまい、峠をこす前に日が暮れてしまいました。困ったお百姓さんがあたりを見回すと、ちょうど峠の下に小さなお堂がありました。
「やれ、ありがたい。今夜一ばんとめてもらうとしようか。」
お百姓さんは、とめてもらうのだからお堂をよごしてはいけないと、わらじをぬぎお地蔵様に手を合わせえて、すみっこに寝かせてもらいました。
すると、夜中にお地蔵様の夢を見ました。
「おまえの家では、今夜、男の子が生まれている。その子の寿命は、かわいそうじゃが十五才までじゃ。十五才のときののぞみはなんでもかなえてやれ。」
次の日、お百姓さんはふしぎに思いながら峠をこえて家へ帰ってみると、お地蔵様のおつげのとおり、かわいい男の子が生まれていました。お百姓さんとおかみさんはとても喜んで、その子をかわいがって育てました。その子は、心のやさしいりっぱな若者に成長しました。
「この子が、ほんとうに十五までの命なのだろうか。もうすぐ十五才。のぞみがあればなんでもかなえてやろう。」
お百姓さんはその姿を見て、いつもこう思っていました。
その若者が十五になった春のことでした。
「おとっつぁん。わたしは一度お伊勢参りをしてみたいのです。」
といいました。お百姓さんは、おかみさんと相談して、旅の途中でおなかがすかないようにと、おだんごをたくさん作って、お伊勢参りに行かせてやりました。
若者が、多米の峠を下りお地蔵様におまいりをして、吉田の大橋までくると、美しい女の人が橋の上に立っていました。女は若者を見ると、
「わたしも、これからお伊勢参りに行くところなのです。一人では心細いので、どうかいっしょに行ってくださいな。」
とたのみました。
二人はなかよく話しながら、お伊勢参りをしました。おなかがすいた時には、おだんごを分けあって食べました。
「まあ、おいしいこと。こんなにおいしいおだんごははじめてです。」
こうして二人はまた吉田の大橋まで帰ってきました。すると女の人が急にあらたまって、
「じつは、わたしはこの豊川の入道ふちに住む竜なのです。一度お伊勢参りに行ってみたかったので、女の姿になってあなたを待っていたのです。おかげでぶじに行ってくることができました。お礼に、あなたの寿命はきょうでおしまいだったのですが、今から七十までも八十までも生きられるようにしてあげましょう。」
といって大きな竜になって、豊川の中に消えていきました。
お百姓さん夫婦と若者は、それから毎年、明治の時代になってからも、多米の宝珠寺の前のお地蔵様に、必ずおだんごをおそなえしてからおまいりをするようになりました。
そののち、多米の人々は赤ちゃんが生まれるというと、このお地蔵様におまいりをして、生まれる子が健康で長生きをするようにお願いしました。そして、いつのまにか、このお地蔵様を「子守地蔵」というようになりました。
- 教育(多米郷土誌より抜粋)
昔の手習いは各寺の住職がこれに当り、又庄屋格の人が開いているものもあった。幕末には当町では赤岩寺住職尾崎英弘、歓喜院住職井上悦法、宝珠寺住職三輪補石であった。寺上りは毎年初午の日で赤飯と竹輪を持参して仲間入の披露とした。其の日寺子等は正一位大明神と書いた五色の(赤青黄白黒)の紙幟を作り、稲荷社へ参拝奉納したのである。村にも稲荷社はあったが、寺子屋には大抵稲荷の祠があった。教授科目は大体読、書、算の三通で読書では、伊呂波名付、四季文章是非、短歌、村付国尽、官名都路往来、都物語、百姓往来、手紙其他で手本は全部師匠の肉筆であった。その手本は先ず読み方を教え、次に文字を覚え込む迄幾日でも習字をさせた。一枚済むと次へ移り物覚えのよい者はどんどん先へ進んで行った。一通りすむと師匠が表紙を書いてくれ一冊の本に纏めた。手習時間は午前八時から午後三時迄で朝は、「お早う」晩は「お暇」と言って挨拶した。年令は七、八才から十五、六才迄で其の間各自の机は師匠の下に預けてあった。師匠への謝礼は三、五、九月の節句と盆、正月の五回に持参し一回百文位であったと言う。明治五年八月学制が頒布されて寺子屋は廃止となった。
(中略)
附記 明治七年一月牛川学校出張所多米小学校となり、宝珠寺を仮校舎とした。明治十三年五月畑ヶ田に校舎を新築する。明治三十四年六月校舎を現在(当時の)の場所即ち多米村滝の谷に新築した。
解説目次のページ
多米校区自治会ホームページ
※引用している文献は下記の通りです。
- 豊橋百科事典…発行:豊橋市文化市民部文化課 平成18年12月1日発行
- 校区のあゆみ「多米」…発行:豊橋市総代会 平成18年12月25日発行
- 多米郷土誌…発行:多米郷土誌編纂委員会 昭和42年11月1日発行
- わたしたちの多米…発行:豊橋市立多米小学校 昭和61年3月15日発行
- 多米徳合長者考(豊橋美術博物館研究紀要16号 東郷公司)…発行:豊橋市美術博物館 平成21年3月発行
- 岩崎ものがたり…発行:夏目修二 令和3年12月1日発行